エゴン・シーレ 死と乙女

1月28日(土) Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー!

愛も、命さえも、この絵に捧げて―

クリムトと並び世紀末ウィーン美術史に燦然と輝くエゴン・シーレ エロスとパッションを描き、28年の生涯を駆け抜けた天才画家名画「死と乙女」に秘められた愛の物語が今、明かされる――

Introduction & Story

魂を揺さぶる鮮烈な作風で独特の美とエロスを描き、28年の生涯を駆け抜けた天才画家エゴン・シーレ。
スキャンダルとエゴイズム、そしてシーレをめぐる女たち
第一次世界大戦末期のウィーン。天才画家エゴン・シーレはスペイン風邪の大流行によって、妻エディットとともに瀕死の床にいた。そんな彼を献身的に看病するのは、妹のゲルティだ。――時を遡ること、1910年。美術アカデミーを退学したシーレは、画家仲間と“新芸術集団”を結成、16歳の妹ゲルティの裸体画で頭角を現していた。そんなとき、彼は場末の演芸場でヌードモデルのモアと出逢う。
褐色の肌を持つエキゾチックな彼女をモデルにした大胆な作品で一躍、脚光を浴びるシーレ。その後、敬愛するグスタフ・クリムトから赤毛のモデル、ヴァリを紹介されたシーレは、彼女を運命のミューズとして数多くの名画を発表。幼児性愛者という誹謗中傷を浴びながらも、シーレは時代の寵児へとのし上がっていく。しかし、第一次世界大戦が勃発。シーレとヴァリの愛も、時代の波に飲み込まれていく――。
ウィーン世紀末美術史に輝くクリムトとシーレの名画の数々。
大抜擢された美しきニューフェイスがかつてない人間味あふれるシーレ像を体現!
エゴン・シーレを演じるのは、モデル出身の新人ノア・サーベトラ。美男のプレイボーイとして知られ、生涯のパートナーとも目されたヴァリを棄て、良家の子女を妻に迎える非情でいて野心的なシーレを、眼を奪う白皙の美貌とともに説得力たっぷりに演じた。監督ディーター・ベルナーはかつてミヒャエル・ハネケ監督の『セブンス・コンチネント』で主役を演じたことのある異色のキャリアの持ち主。俳優出身の監督らしく、新人サーベドラの魅力を引き出し、鮮烈なデビューを飾らせた。

シーレ「ヴァリの肖像」「横たわる女」やセセッシオンのクリムト「ベートーベン・フリーズ」など十数点の名画が映画全編にわたり効果的に映し出されるのも見逃せない。エゴン・シーレ没後、約100年。今なお、多くの画家やアーティストに多大なインスピレーションを与え続けるシーレの伝説、そして最高傑作「死と乙女」に秘められた愛の物語が今、明らかになる――。

Cast&Staff

ノア・サーベトラ(エゴン・シーレ役)
1991年オーストリア東部ブルゲンラント州オーバープレンドルフ生まれ。2009年に高校を卒業、オーストリア国立劇場(ブルク劇場)が運営する青少年のための演劇クラブに参加し、初めて舞台に立つ。「ミヒャエル・コールハースの運命」(ハインリヒ・フォン・クライスト作)で主演。2013年からは、ウィーン・コンセルヴァトリウム音楽大学の演劇コースで学んでいる。2014年テレビドラマ”Copstories”にゲスト出演。本作で長編映画出演デビュー作。
マレシ・リーグナー(ゲルティ役)
1991年ウィーン生まれ。2013年からウィーン・コンセルヴァトリウム音楽大学の演劇コースで学ぶ。いくつかのTVドラマに参加し、現在初主演作品でHenry Steinmetz監督の”Limbo”を撮影中。
フェレリエ・ペヒナー(ヴァリ役)
1987年オーストリア北部、ヴェルス生まれ。2013年にウィーン国立音楽大学所属の名高い演劇コース、マックス・ラインハルト・セミナーを卒業。その後はドイツ、ミュンヘンのレジデンツ劇場に所属している。初主演作は““Blind” (13)。テレンス・マリックの最新作”Radegund”にアウグスト・ディールと出演予定。
ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ(モア役)
1993年ウィーンでナイジェリア出身の両親の元に生まれる。2011年にモデルコンテスト番組Austria’s Next Top Model (FOXで放映中の「アメリカズ・ネクスト・トップモデル」オーストリア版)の第3シーズンで優勝。国内外で活躍するファッションモデル。2010年からテレビ、映画にも出演。人気バラエティ番組”Wir sind Kaiser”の特別番組にゲスト出演している。
監督・脚本:ディーター・ベルナー
1944年ウィーンに生まれる。大学資格試験後、ウィーンとベルリンのラインハルトセミナーに通い、その後2年間、俳優としてウィーン・フォルクス劇場の舞台に立つ。1968年、俳優ヴェルナー・プリンツと監督ヴォルフガング・クゥエテスと劇団「Theater der Courage(テアター・デア・クラージェ)」をウィーンで結成。続いて、ベルリンにあるシャウビューネ劇場のペーター・シュタインの下で学ぶ。その後、チューリッヒ、ウィーンの劇場で舞台演出を手掛け、映画監督、脚本家、としても活躍、テレビシリーズでも多くの賞を受賞している。1989年にはミヒャエル・ハネケ監督長編デビュー作『セブンス・コンチネント』で主役を演じた。1983年からは、ウィーン、ミュンヘン、ベルリンのいくつかの映画学校で映画演出と脚本執筆を教えている。

Interview

監督としての画家
画家の映画を作るとき、「そもそも描くとはどういうことだろう。 描くことにどんな意味があるのだろう」という疑問が生まれます。シーレを映画にするにあたり、この疑問も追求しています。シーレは写真も撮っていたことが分かりました。彼の写真には、しばしばとても洗練されたポーズが目につきます。彼はそれまでにない表情豊かなポーズを作り上げました。肉体を語るための表現手段として、シーレは肉体を使ったのです。肉体だけで人間について何が語れるのでしょうか。これは監督にとって、とても興味深いことです。私たちも映画でこのアプローチについ て語りたいと考えました。どのようにすればあれほど表現豊かなポーズが作り出せるのでしょう。これは、まさに演出です。つまり画家は自分の絵の監督だと言えるでしょう。
シーレのスケッチブックは、完全なコレクションが存在します。彼は、人生の瞬間を留めておけるようにと、いつもスケッチブックを持ち歩きました。監督として彼は自分に問いかけます。表情豊かなポーズとはどんなだろう、視覚的に面白い瞬間とはどんなだろう。それをスケッチブックに描き留めるのです。彼の絵の 構成は細部まで考え尽くされていて、決して描きながしたものはありません。それが見るということであり、私たちがこの映画でも伝えたかったことなのです。
主役のノア・サーベトラについて
私のコンセプトで重要なのは、若者を描くことにその本質があ るということでした。俳優が若者を演じるのではなく、本当に若い者がカメラの前に立つということです。若く、同時に、人生経験が豊富な人物を見つけるのは非常に難しいことだとは、初めから分かっていました。ですが、非常に複雑なキャラクターを演じるには人生経験が必要だったのです。そのため、私たちはキャスティングにすでにとても長い期間をさいていました。そしてついに、アマチュアを起用するか、演劇学校の学生から起用するか、どちらかにする必要があるのではないかと考えました。

俳優たちは天才を演じなければならないとき、たいていどこか 退屈か、もしくは誰かの模倣になってしまいがちです。私たちは芸術アカデミーの若い画家を起用することも試してみました。そうすれば画家の行動を非常にうまく表現することはできます。しかし台詞や状況を表現することは無理でした。私たちはようやく一人の青年を見つけました。

彼は写真モデルとしての経験があり、映画俳優を目指していました。文章を2つ覚えることもできませんでしたが、最初から私は彼にシーレと同じような人を惹きつけるエネルギーを感じたのです。それで、私は冒険しようと決心をしました。

1年以上にわたり、彼にこの役について手引きをしました。実際のところ、彼自身も俳優になりたいと考えていたので、演劇学校に通わせたのです。そして、ついには有名なエルンスト・ブッシュ演劇大学の入学試験 にも合格したのです。 さらに、彼は映画の中で自分が絵を描けるようにと、芸術アカデミーの「彩色画と素描」の講義を2学期 間受講します。エゴン・シーレという非凡な人物と同じように、とても重要なエネルギーを持ち合わせる一人の青年を見つけられて、私は幸運でした。

Chronicle

年 表
エゴンシーレの出来事 代表作 世界の出来事
1890年 0歳 6月12日、鉄道官吏の父アドルフと母マリーの第3子としてトゥルンで生まれる    
1894年 4歳 妹ゲルトルート(愛称ゲルティ)が生まれる   ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死去
1896年 6歳 トゥルンの小学校に入学    
1897年 7歳    
1902年 12歳 父アドルフが梅毒により退職、一家はクロスターノイブルクに転居。高校に進学   グスタフ・クリムトがウィーン分離派を結成
1904年 14歳 父アドルフ死去。叔父が後見人となる    
1905年 15歳 風景画など油彩を描き始める    
1906年 16歳 名門ウィーン美術アカデミーに史上最年少で入学    
1907年 17歳 ウィーンにアトリエを構える。クリムトと知り合う 「トリエステの港」 アドルフ・ヒトラーがウィーン美術アカデミーを 受験するも2年連続で失敗
1909年 19歳 ウィーン美術アカデミーを退学。友人らと「新芸術家集団」を結成。画家としてデビュー    
1910年 20歳 後見人と決別し生活が困窮。労働者層の少女らをモデルにした裸体画や自画像を描き始める 「鏡の前でヌードモデルを描くシーレ」  
1911年 21歳 母マリーの故郷クルマウにアトリエを移す。クリムトから譲られたモデル、ヴァリ・ノイツェルと同棲生活を 始めるが、村人からの反発でノイレングバッハに移る    
1912年 22歳 「不道徳」「未成年誘拐」の容疑で24日間の獄中生活を送る(ノイレングバッハ事件)。 釈放後はウィーンにアトリエを構える 「ほおずきの実のある自画像」
「ヴァリの肖像」
 
1913年 23歳 ミュンヘン、シュトゥットガルト、ベルリンなどで個展を開く 「赤いブラウスのヴァリ」  
1914年 24歳 アトリエの向かいに住む中産階級の姉妹アデーレとエディットと知り合う   第一次世界大戦勃発
1915年 25歳 ヴァリと別れ、エディットと結婚。その4日後に召集を受けてプラハで入隊 「死と乙女」  
1917年 27歳 ウィーンの陸軍物資調達事務所に転属 「膝をあげて座っている女」  
1918年 28歳 第49回ウィーン分離派に参加。画家としての地位が確立。スペイン風邪の大流行により妊娠中の妻 ディットが死去。看病にあたっていたシーレ自身も3日後の10月31日に死去 「家族」 2月6日クリムト死去。第一次世界大戦終結