愛も、命さえも、この絵に捧げて―
クリムトと並び世紀末ウィーン美術史に燦然と輝くエゴン・シーレ エロスとパッションを描き、28年の生涯を駆け抜けた天才画家名画「死と乙女」に秘められた愛の物語が今、明かされる――シーレ「ヴァリの肖像」「横たわる女」やセセッシオンのクリムト「ベートーベン・フリーズ」など十数点の名画が映画全編にわたり効果的に映し出されるのも見逃せない。エゴン・シーレ没後、約100年。今なお、多くの画家やアーティストに多大なインスピレーションを与え続けるシーレの伝説、そして最高傑作「死と乙女」に秘められた愛の物語が今、明らかになる――。
俳優たちは天才を演じなければならないとき、たいていどこか 退屈か、もしくは誰かの模倣になってしまいがちです。私たちは芸術アカデミーの若い画家を起用することも試してみました。そうすれば画家の行動を非常にうまく表現することはできます。しかし台詞や状況を表現することは無理でした。私たちはようやく一人の青年を見つけました。
1年以上にわたり、彼にこの役について手引きをしました。実際のところ、彼自身も俳優になりたいと考えていたので、演劇学校に通わせたのです。そして、ついには有名なエルンスト・ブッシュ演劇大学の入学試験 にも合格したのです。 さらに、彼は映画の中で自分が絵を描けるようにと、芸術アカデミーの「彩色画と素描」の講義を2学期 間受講します。エゴン・シーレという非凡な人物と同じように、とても重要なエネルギーを持ち合わせる一人の青年を見つけられて、私は幸運でした。
年 | エゴンシーレの出来事 | 代表作 | 世界の出来事 |
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1890年 | 0歳 6月12日、鉄道官吏の父アドルフと母マリーの第3子としてトゥルンで生まれる | ||
1894年 | 4歳 妹ゲルトルート(愛称ゲルティ)が生まれる | ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死去 | |
1896年 | 6歳 トゥルンの小学校に入学 | ||
1897年 | 7歳 | ||
1902年 | 12歳 父アドルフが梅毒により退職、一家はクロスターノイブルクに転居。高校に進学 | グスタフ・クリムトがウィーン分離派を結成 | |
1904年 | 14歳 父アドルフ死去。叔父が後見人となる | ||
1905年 | 15歳 風景画など油彩を描き始める | ||
1906年 | 16歳 名門ウィーン美術アカデミーに史上最年少で入学 | ||
1907年 | 17歳 ウィーンにアトリエを構える。クリムトと知り合う | 「トリエステの港」 | アドルフ・ヒトラーがウィーン美術アカデミーを 受験するも2年連続で失敗 |
1909年 | 19歳 ウィーン美術アカデミーを退学。友人らと「新芸術家集団」を結成。画家としてデビュー | ||
1910年 | 20歳 後見人と決別し生活が困窮。労働者層の少女らをモデルにした裸体画や自画像を描き始める | 「鏡の前でヌードモデルを描くシーレ」 | |
1911年 | 21歳 母マリーの故郷クルマウにアトリエを移す。クリムトから譲られたモデル、ヴァリ・ノイツェルと同棲生活を 始めるが、村人からの反発でノイレングバッハに移る | ||
1912年 | 22歳 「不道徳」「未成年誘拐」の容疑で24日間の獄中生活を送る(ノイレングバッハ事件)。 釈放後はウィーンにアトリエを構える | 「ほおずきの実のある自画像」 「ヴァリの肖像」 |
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1913年 | 23歳 ミュンヘン、シュトゥットガルト、ベルリンなどで個展を開く | 「赤いブラウスのヴァリ」 | |
1914年 | 24歳 アトリエの向かいに住む中産階級の姉妹アデーレとエディットと知り合う | 第一次世界大戦勃発 | |
1915年 | 25歳 ヴァリと別れ、エディットと結婚。その4日後に召集を受けてプラハで入隊 | 「死と乙女」 | |
1917年 | 27歳 ウィーンの陸軍物資調達事務所に転属 | 「膝をあげて座っている女」 | |
1918年 | 28歳 第49回ウィーン分離派に参加。画家としての地位が確立。スペイン風邪の大流行により妊娠中の妻 ディットが死去。看病にあたっていたシーレ自身も3日後の10月31日に死去 | 「家族」 | 2月6日クリムト死去。第一次世界大戦終結 |