帝国を築いた伝説のファッションブランド「ピエール・カルダン 」。未来的なコスモコール・ルックで若者を熱狂させたモード界のパイオニアに初密着!98歳の今も現役で活躍するレジェンドが語るのは、ファシズムが台頭する祖国イタリアからフランスへ逃れた記憶に始まり、先鋭的すぎてファッション界から敬遠された苦悩と反撃、ジャンヌ・モローとの運命的な恋、芸術に情熱を注いだ劇場運営、門前払いされた高級レストラン「マキシム・ド・パリ」のリベンジ買収など、波乱万丈でカラフルな人生だ。
ファッション後進国だった日本や人民服を着ていた中国に先陣を切って乗り込み、“装う”楽しさを世界中に伝えたカルダン。秘蔵映像や豪華なゲストたちの証言から浮かび上がるのは、スキャンダラスな天才デザイナーのチャーミングな素顔と輝かしいレガシー。
楽しく生きたい全てに人に贈るドキュメンタリー!
布の魔術師とも呼ばれるカルダン。
人体やボディに直接布地を当てて形をとり、裁断する手法で、平面上で作図した型紙を使うより曲線的なシルエットを作りやすい。
カルダンは1958年に初来日し、1ヶ月にわたり東京で立体裁断講座を開講。桂由美、森英恵、高田賢三なども受講し、平面裁断が主流だった日本に新風をもたらした。
その技術は文化学園大学で今も伝えられている。
富裕層向けのオートクチュール(高級仕立て服)全盛期だった1960年代前半、カルダンは「庶民のために服を作る」と宣言し、フランス オートクチュール組合会員として初めて、プレタポルテ(既製服)市場に参入した。百貨店で憧れの新作が手ごろな価格で手に入る“モードの民主化”を果たす。
翌年にはクラシックなスーツ一辺倒だった紳士服に、モダンなプレタポルテ・コレクションを投入。ビートルズもカルダンの襟なしジャケットを着るなど、アーティスト注目のブランドとなった。
白人モデルが主流だったファッション界に日本人の松本弘子や黒人モデルを起用するなど、既成概念を破壊する先進的な姿勢はモード界の逆鱗に触れ、カルダンはオートクチュール組合から除名される。
その後、デザイナーとして経営基盤を支えるライセンスビジネスに初参入。航空会社のユニフォームや自動車、飛行機、家具、香水、タオルなどのデザインを手掛け、ピエール・カルダンの名を世界中に広めた。
カルダンのミューズ。
1954年に雑誌「アサヒグラフ」の表紙を飾りモデルデビュー。初来日したカルダンが惚れ込み、何度もフランスに来てくれるように懇願。60年に渡仏しパリコレモデルとして活躍した。
フランソワ・トリュフォー監督作『家庭』(70)にも出演し、ミステリアスな容姿で映画に華を添えた。
75年からは「VOGUE」で編集、広報、広告の日本担当責任者を務め、日仏のファッションの架け橋となった。03年没。
コダール、トリュフォー、ドゥミなどヌーベルバーグの監督たちに愛されたフランスの名女優。ヌーベルバーグの先駆け的作品、ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』(57)で注目される。
『天使の入江』(63)の衣装を担当したカルダンを見初めたモローが猛アタックし、数年間パートナーとして同棲。
出会った頃はカルダンには公私に渡るパートナーの男性アンドレ・オリヴェがおり、モローの登場で関係が壊れかけるが、後にビジネスパートナーとして復縁した。
かつて舞台俳優を目指していたカルダンは、1970年に劇場を買収して「エスパス・ピエール・カルダン」を開設。フランス国内外の才能ある新人にデビューの場を提供すると同時に、各国の伝統芸術を紹介して国際文化交流に貢献した。フランスの名優ジェラール・ドパルデューはカルダンに見出された1人。
2016年に閉館したが、現在、場所を移して映画館を併設した新エスパス・カルダンを建設中。
文化大革命終了直後の中国や共産圏のソビエト連邦にチャンスを嗅ぎ取り、ファッションショーを初開催。万里の長城で開催されたカラフルなファッションショーは中国人の憧れを掘り起こし、どのブランドも眼中になかった中国市場をいち早く獲得した。
1893年創業、アールヌーボー・スタイルの老舗高級レストラン。
60年、カルダンは新作のスモーキング姿で店を訪れたところ、ドレスコードに引っ掛かり門前払いされてしまう。
81年に経営権を全面的に獲得してオーナーとなったカルダンは、 上階に自身が60年以上かけて収集したアールヌーボーの名品約750点を展示する美術館を開設した。