香港映画のアクションが、ハリウッドをはじめとする世界中の映画界に多大な影響を与えたのは周知の事実である。
それはブルース・リー、ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェンといったアクションスターの実力のみで実現できたわけではない。映画の中で、彼らの攻撃を受けて派手に吹っ飛び、時には彼らの華麗かつ危険なアクションの代役を務めたスタントマンたちの存在があったからだ。
その証拠に――『サイクロンZ』(88)でジャッキー・チェンがみせた、あの華麗な決め技は、実はスタントマンによるものだった!
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』(91)のクライマックスでのジェット・リーのアクションは、実は3人のスタントマンが吹き替えていた!
『プロジェクトA』(83)の時計台落下スタントは、実はジャッキーが挑戦する前に1人のスタントマンが実験台になっていた!
これらの事実からもわかるように、香港のアクションはどんな危険な撮影でも「決してNOと言わない」スピリッツで挑んできたスタントマンたちの功績があったからこそ正解最高峰のアクションを生み出すことが事ができた。『カンフースタントマン 龍虎武師』は、香港アクション映画の発展に身を捧げてきたスタントマンたちの激闘の歴史に、映画史上最も迫ったドキュメンタリー作品である。
監督は『奇門遁甲』(未・17)、『ザ・ルーキーズ』(19)のプロデュースで知られるウェイ・ジュンツー。著名な映画評論家でもある彼は、3年の撮影期間をかけて、100人近くの香港アクション関係者を徹底取材。
そんな彼の熱意に応えてサモ・ハン、ドニー・イェン、ブルース・リャンといったアクションスターや、ユエン・ウーピン、スタンリー・トン、チン・シウトン、トン・ワイ、チン・カーロッ といった俳優・映画監督、ジャッキー・チェンのスタント・チーム成家班の元メンバーで、『ドラゴンロード』(81)など数々のジャッキー映画に出演したマース、『ヤングマスター』(80)の役人など、個性的な顔立ちが数々の香港映画ファンで活躍したスタントマン兼俳優のユエ・タウワン、 最近では『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(21)の出演が印象に残るユン・ワー、そしてツイ・ハーク、アンドリュー・ラウ、エリック・ツァン、ウー・スーユエン といった大物映画人たちが出演。さらに香港スタントマン協会が全面協力した事により、彼らの証言と『大福星』(85)、『ファースト・ミッション』(85)、『おじいちゃんはデブゴン』(16)、『ファイヤー・ストーム』(13)のメイキングなど膨大なアーカイブ映像で贈る、香港アクション映画の歴史を網羅した怒涛の作品が誕生した!
自らの肉体をかけて、香港アクション映画の不可能を可能にしてきたスタントマンたちの伝説が遂に明かされる! これは香港映画ファンのみならず、全アクション映画ファン必見の今年、最も熱く、最も痛い、感動巨編だ!
カンフー映画のルーツは、京劇にある。
1930年代、中国の京劇役者の多くが、日本の本土侵略から逃れるために香港に移住した。彼らは、貧しい家庭の子供たちに京劇を教えるようになり、1960年代には香港に4校の京劇学校ができた。
春秋戯劇学校には、後にハリウッドで活躍するジョン・ローンや『燃えよドラゴン』(73)の冒頭、ブルース・リーから「考えるな、感じるんだ」という教えを授かる場面に出演し、映画監督となったトン・ワイ。東方戯劇学校にはジャッキー・チェンのスタントチーム成家班で活躍したマース、俳優・監督となったチン・シウトン。中華戯劇学校には、後にサモ・ハンのスタントチーム洪家班のメンバーとなったビリー・チャン。中国戯劇学院にはサモ・ハン、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、ユン・ワーたちが学んでいた。
しかし、弟子たちが卒業する頃、京劇の人気は下火になり、彼らは活躍の場を映画のスタントに移した。当時の香港映画界は東洋一の巨大スタジオを持つショウ・ブラザーズが繁栄を誇っていた。この頃のカンフー・シーンは、京劇の流れを汲んだ、舞踏のような戦い方が主流で、武術と演技の基礎が叩きこまれた彼らは、多様なアクションを演じる事ができた。
1971年、新たに作られた映画会社ゴールデン・ハーベストが製作したブルース・リー主演作『ドラゴン危機一発』が驚異的なヒットを記録。ブルース・リーによるファイトシーンは、それまでのカンフー映画にはない、実戦的なものだった。彼は、自身の主演作に出演するスタントマンたちにも実戦的なアクションを要求し、カンフー映画に変革をもたらすことになった。しかし、1973年にブルース・リーが若くしてこの世を去ると、カンフー映画の人気は低迷し、多くのスタントマンが職を失ってしまう……。
その現状を打破したの映画監督兼俳優のラウ・カーリョンとサモ・ハンだった。洪家拳の達人であるラウ・カーリョンは、本物の武術を取り入れたカンフー映画を次々と監督。若くして俳優となったサモ・ハンは、監督デビュー作『少林寺怒りの鉄拳』(77)で、新たなスタイルのカンフー映画を提示。彼らの活躍により、カンフー映画は活気を取り戻しはじめた。この勢いに乗ったプロデューサー兼監督のウー・スーユエンは、武術指導だったユエン・ウーピンを監督に、ブレイク前のジャッキー・チェンを主演に迎えた『スネーキーモンキー 蛇拳』(78)と『ドランク・モンキー 酔拳』(78)を製作。この2作の大ヒットによって、アクション・コメディがトレンドとなった。
香港映画界に再びカンフー映画ブームが到来した。サモ・ハン、ジャッキー・チェン、ユエン・ウーピン、ラウ・カーリョンたちは自分のスタントチームを作り、次々とアクション映画を製作。彼らはライバルチームに負けないアクションを生みだそうと競い合っていた。
「香港のスタントマンにとって最も危険な時代」と呼ばれる1980年代になると、スタントチームの競争は激化。
「ライバルチームの作品が、ビルの8階から地上のプールにダイブしたなら、自分たちは9階から地上の炎の中にダイブしなければいけない」という危険極まりない状況だった。
だが、スタントマンたちは「決して“ノー”と言わない」常軌を逸した精神で、香港アクション映画の最盛期を支えていくのであった。