1947年1月8日 、イギリス出身。69年に発表したアルバム『スペース・オデッセイ』で注目され、72年『ジギー・スターダスト』の音楽性の高さと艶かしいビジュアルが話題に。83年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に出演し、気品ある存在が高く評価される。16年1月8日に遺作となるアルバム『★(Blackstar)』をリリースし、2日後の1月10日に肝癌で死去したと発表された。
1955年7月22日、アメリカ出身。『ストリート・オブ・ファイヤー』(84)のギャング役で一躍時の人に。個性的な顔立ちとしゃがれ声を生かし『最後の誘惑』(1988)のキリスト役や『永遠の門 ゴッホの見た未来』(18)でゴッホを演じるなど実力派怪優として評価される一方、『アクアマン』(19)などブロックバスター作品で名脇役として活躍している。『永遠の門』と『フロリダ・プロジェクト』(17)で2年連続アカデミー賞にノシャルロット・ゲンズブール ミネートされた。
1935年7月6日、チベット出身。法名はテンジン・ギャツォ。40年にチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ法王14世に即位するが、59年にインドへ政治亡命。世界中のチベット民族だけでなく、指導的立場にある人物と目されている。89年、世界平和やチベット宗教・文化の普及に務めた功績で、ノーベル平和賞を受賞。信者にはリチャード・ギアなど映画人も多い。マーティン・スコセッシ監督が『クンドゥン』(97)でその半生を映画化している。
1942年1月8日、イギリス出身。ケンブリッジ大学大学院中に運動ニューロン病を発病するが研究を継続し、74年に「ブラックホールが爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表し、量子宇宙論という分野を開拓した。88年には宇宙学解説書「ホーキング、宇宙を語る」が世界で1000万部ものベストセラーに。14年、最初の妻ジェインとの出会いと別れが描かれた『博士と彼女のセオリー』が公開された。18年3月14日没。
1947年1月18日、東京都出身。大学在学中に芸人見習いとなり、72年に相方のきよしと漫才コンビ「ツービ-ト」を結成。高速の毒舌でツッコむ芸風は賛否両論だったが、80年頃に起きた漫才ブームで一躍時の人に。89年には『その男、凶暴につき』で鮮烈な監督デビューを果たし、97年には『HANA-BI』で第54回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。現在も多数のレギュラー番組を抱えながら、映画製作を続けている。
ロシア出身。メンバーはマリア・アリョーヒナ、ナージャ・トロコンニコワらとプッシー・ライオットを結成。2012年3月にプーチン大統領の再選に反対して、モスクワのハリストス大聖堂で無許可演奏を行い逮捕された。その後、不当逮捕と拙速な裁判に対してロシア内外でアーティストやミュージシャン、政治家がロシア政府を批判した。18年7月15日、サッカー・ワールドカップロシア大会の決勝戦で、警官に変装してピッチに乱入する騒動を起こした。
1918年7月18日、南アフリカ出身。4 8年に施行された白人と非白人との人種隔離政策「アパルトヘイト」に反対する運動に参加。64年に国家反逆罪で終身刑が下る。90年に釈放された後にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。91年、デクラーク大統領(当時)と共にアパルトヘイト撤廃し、93年にノーベル平和賞を受賞。翌年、南アフリカ初の選挙を経て大統領に就任してからは、民族和解、協調政策を進めた。13年12月5日没。
1948年9月20日、アメリカ出身。幼少年期からSF小説を書き始め、71年に短篇「The Hero」でデビュー。「ライアへの賛歌」(74)等でヒューゴー賞を受賞。「サンドキングズ」(79) で同賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞し、SF作家の地位を築く。先日終了したHBOのドラマシリーズ「ゲーム・オブ・スローン」の原作である「七王国の玉座」で始まる〈氷と炎の歌〉シリーズは世界各国でベストセラーに。
1933年2月18日、東京都出身。66年、前衛芸術家として活動中にジョン・レノンと知り合い、69年に結婚。以後、夫婦で「ベッド・イン」「ウォー・イズ・オーヴァー」キャンペーンなどの「愛と平和」活動や音楽活動を行う。近年は息子のショーン・レノンとともにプラスティック・オノ・バンドを再結成。14年にはフジロックフェスティバルにも参加し、15年11月から東京都現代美術館で大回顧展が開催された。18年10月にはアルバム「ウォーゾーン」を発表と、今なお精力的に活動している。
1963年3月27日、アメリカ出身。レンタルビデオの店員時代に書いた初監督作『レザボア・ドッグス』(92)は複雑な構成と激しい暴力描写、シネフィルをくすぐるセリフ、懐メロ満載のサントラなどが大受けし、カンヌ国際映画祭で大絶賛。2作目の『パルプ・フィクション』では同祭でパルム・ドールとアカデミー賞脚本賞などを受賞。19年のカンヌ国際映画祭で最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)を披露。豪華キャストが大きな話題を呼んだ。
1957年5月18日(?)、中国出身。詩人の父が文化大革命で批判され、一家で労働改造所へ送られた経験を持つ。文革後初の前衛芸術のグループに参加するが中国当局の圧力を受け活動停止。81年~93年をニューヨークで過ごした。08年開催の北京オリンピックでは北京国家体育場(鳥の巣)の芸術顧問として参加。同年に起きた四川大地震で犠牲になった子供たちの実態調査を開始するが、その後、厳しい管理下に置かれた。現在ベルリン在住。17年に監督作『ヒューマンフロー 大地漂流』を発表した。
1941年4月8日、イギリス生まれ。65年に弟の友人マルコム・マクラーレンと出会い、71年に2人でブティック「レット・イット・ロック」をキングスロードにオープン。挑発的なデザインはのちにパンク・ファッションとして脚光を浴びる。現在、世界数十カ国、100店舗以上を展開する独立ブランドのトップかつ現役デザイナーとして活動中。環境問題と人権保護問題にも積極的に参加する。波乱万丈の人生を語るドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』(18)は日本でも大ヒットした。
1943年10月3日、東京都出身。文化服装学院を卒業した69年に装苑賞と遠藤賞を受賞。72年に株式会社ワイズ (Y’s) を設立し、77年に東京コレクションにデビュー。81年のパリ・コレクションで当時タブー色だった黒を多様に使うショーを発表し、衝撃を与えた。89年にはヴィム・ヴェンダース監督が山本を追うドキュメンタリー映画『都市とモードのビデオノート』が公開。近年はアディダスのスポーツブランド、Y-3を手掛ける。また、自身のコレクションに流す自作曲が注目され、ブルーノート東京でライブを開くなど、多方面で活躍する。
1946年11月30日、ユーゴスラビア出身。パフォーマンスアートのグランドマザーと呼ばれ、過激で挑発的なパフォーマンスにレディーガガも彼女に影響を受けている。彼女が第1回大地の芸術祭で発表した「夢プロジェクト」は今も新潟県十日町にあり、宿泊施設「夢の家」で宿泊体験ができる。
1949年9月25日、スペイン出身。86年に『マタドール<闘牛士>・炎のレクイエム』で映画監督デビュー。独特なストーリーと色彩感覚が国内外で評価されている。最新作は、カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された「Pain & Glory」(19)。
1929年8月24日、エルサレム出身。パレスチナ初代パレスチナ自治政府大統領であり、パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長1993年にイスラエルとの歴史的な和平協定を果たし、パレスチナ暫定自治政府を設立。94年にはノーベル平和賞を受賞した。04年11月11日没。
1940年5月25日、東京出身。64年、写真集「さっちん」で第1回太陽賞を受賞。71年、妻陽子との新婚旅行を写した『センチメンタルな旅』が話題になる。女性ヌード、東京、飼い猫のチロなど、様々な被写体から強烈なエロス漂う世界観が国内外で高い評価を受けている。
1965年11月21日、アイスランド出身。ポップバンドのザ・シュガーキューブスの解散後、93年にソロデビュー。少女のような歌声と不思議な歌唱法が話題になり注目される。00年にカンヌ国際映画祭のパルム・ドール受賞作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に主演し、最優秀女優賞を受賞。
1924年6月12日、アメリカ出身。第41代大統領。89年12月、ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長とマルタ会談で冷戦の終結を宣言。90年8月、イラク軍によるクウェート侵攻に対し、湾岸戦争を展開した。18年11月30日没。
1960年4月9日、スペイン出身。繊細な女性を主人公にした映画を得意とし、日本でもヒットした『死ぬまでにしたい10のこと』(03)や、菊地凜子主演で日本でも撮影を行った『ナイト・トーキョー・デイ』(09) で知られる。最新作は日本でも3月に公開された『マイ・ブック・ショップ』(17)。
兄のジャン=ピエール1951年4月21日、弟のリュック1954年3月10日、共にベルギー出身。兄弟で監督したドキュメンタリー映画『Le Chant Du Rossignol』でデビュー。その後、フィクションに転じ、苦境に生きる人々の葛藤から社会のひずみを浮き彫りにする物語に定評があり、カンヌの常連に。
1948年5月15日、イギリス出身。70年代前半にはアート色の強いロックバンド、ロキシー・ミュージックに所属、脱退後はアンビエント・ミュージックを誕生させたソロ活動と並行して、デヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズ、U2などのプロデューサーとしても評価が高い。
1932年2月18日、チェコスロバキア出身。両親をホロコーストで失う。プラハの春をきっかけにアメリカへ移住。『カッコーの巣の上で』(75)ではアカデミー賞で作品賞、監督賞など5部門を、母国で撮影した『アマデウス』(84)は作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門を受賞。18年4月13日没。
1971年7月21日、フランス出身。84年に『残火』で映画デビュー。86年には主演作『なまいきシャルロット』でセザール賞の有望若手女優賞を獲得。以後、問題作『ニンフォマニアック』(13)から大作『インディペンデンス・デイ リサージェンス』(16)と幅広く活躍中。
1929年2月28日、カナダ出身。自宅を工業用素材を使用してリフォームしたことで一気に注目を浴びた。金属板を曲げたような大胆なフォルムを得意とし、プリツカー賞などを受賞。05年に発表されたドキュメンタリー映画『スケッチ・オブ・ゲーリー』で彼の創造性を観察できる。
1931年3月2日、ソビエト連邦出身。ソ連最後の最高指導者であり、初代大統領。85年にペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を行い、東欧の民主化革命を支持して冷戦終結を導く。9 0年には共産党独裁から複数政党制の容認,大統領制の新設など憲法改正を行ない,初代大統領に就任。90年にノーベル平和賞を受賞した。
1950年10月31日、イラク出身。大がかりな曲線のデザインで知られ、奇抜なデザインのために建築されなかったことも多く「アンビルト(建たず)の女王」の異名も持つ。12年には東京オリンピックのための新国立競技場の国際コンペで選ばれるが、白紙撤回される憂き目に遭う。16年3月31日没。
1942年3月23日、ドイツ出身。「セブンス・コンチネント」(89)で長編デビュー以後、人間の暗部をえぐり出すストーリーと抑えた演出に定評があり、世界中の映画祭で高い評価を受ける。カンヌ国際映画祭では『白いリボン』(09) と『愛、アムール』(12) で2作品連続でパルム・ドールを受賞。
1942年9月5日、ドイツ出身。『カスパー・ハウザーの謎』(74)でカンヌ国際映画祭審査員グランプリ、『フィツカラルド』(82)で同監督賞受賞し、ニュー・ジャーマン・シネマの鬼才として活躍。日本の家族代行会社を舞台にした「Family Romance, LLC」(19)を第72回カンヌ国際映画祭で発表した。
1937年7月9日、イギリス出身。ブラッドフォード美術学校や王立美術学校で学び、’64年に渡米。写真のスナップショットの手法で切り取った日常生活の断片を、明るく透明なアクリル絵具で描く作風が人気。代表作に「日光浴する男」(66)など。
1953年3月16日、フランス出身。クロード・シャブロル、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・オゾンなどフランス映画のミューズとして活躍。01年のカンヌ国際映画祭でグランプリ、最優秀主演女優賞など3部門を受賞した『ピアニスト』で世界的に知られる。韓国のホン・サンス監督作『3人のアンヌ』(12)や『クレアのカメラ』(18)に出演したことも話題。
1948年12月21日、アメリカ出身。長い下積みの後『星の王子ニューヨークへ行く』(88)の悪役で注目される。クエンティン・タランティーノ監督作『パルプ・フィクション』(94) のおしゃべりな殺し屋役で大ブレーク。以後、マーベル作品から硬派なドキュメンタリー作品と幅広いジャンルで活躍中。
1953年1月22日、アメリカ出身。NY大フィルム・スクールの卒業製作『パーマネント・バケーション』が話題となり、84年に発表した『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で同年のカンヌ国際映画祭カメラ・ドールを受賞。独立系映画の寵児となった。19年の同祭ではオールスターキャストのゾンビ映画『The Dead Don’t Die』を発表した。
1975年6月4日、アメリカ出身。『17歳のカルテ』(9 9)でアカデミー賞助演女優賞を受賞。『トゥーム・レイダー』シリーズ(01、03)などで激しいアクションもこなし、スターダムに駆け上がった。同作のロケ地、カンボジアでの経験から慈善活動を開始し、国連難民高等弁務官事務所親善大使に任命された。11年には『最愛の大地』で監督デビュー。
1933年3月15日、アメリカ出身。音楽家、プロデューサー、作曲家、編曲家として現在も活躍する、アメリカ音楽界の巨匠。6500万枚以上を売り上げたマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』をプロシュースを担当した。グラミー賞でノミネーション回数は79、受賞回数は27部門を数える。ドキュメンタリー映画『クインシーのすべて』がNetflixで公開中。
1925年9月16日、アメリカ出身。48年、23歳でギターと歌の才能を認められラジオデビューし、51年のシングル「3 O’clock Blues」でR&Bチャートの1位を記録。スクィーズ・ギターと呼ばれる独自のプレイスタイルを確立し ブルース界のキング的存在としてエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスなどに多大な影響を与えた。15年5月14日没。
1955年1月21日、アメリカ出身。アメリカのキッチュさやポップ・カルチャーを表現した作品で知られ、近年は巨大なバルーンのような鏡面処理を施したステンレス彫刻シリーズが人気。2019年5月に「ラビット」(ウサギ)が、約10 0 億円で落札され話題となった。
1954年生まれ、ユーゴスラビア出身。揺れ動く母国を背景に、土地に根ざして生きる人々をシュールでコミカルに描く作風が人気で、カンヌ国際映画祭の最高賞・パルムドールを2回、ベルリン国際映画祭・銀熊賞、ベネチア国際映画祭・銀獅子賞を受賞と、世界三大映画祭を制覇。16年には『オン・ザ・ミルキー・ロード』で主演も果たした。
1925年11月27日、フランス出身。第2次大戦下、高校生でありながらレジスタンス活動に参加し、戦後はジャーナリストとして活躍。85年、ホロコースト関係者の証言だけを集めた567分に及ぶ大作『SHOAH ショア』で、ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。18年6月28日没。
1957年3月20日、アメリカ出身。人種、貧困問題などに鋭く斬り込むヒットメイカー。86年、『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』のヒットで注目される。『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)でアカデミー脚本賞に、97年のドキュメンタリー映画『4 Little Girls』では長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。『ブラック・クランズマン』(18)で念願のオスカーを獲得。
1946年1月20日、アメリカ出身。カルト映画『イレイザーヘッド』(76) で鮮烈にデビュー。80年の『エレファント・マン』でアカデミー作品賞を含む8部門にノミネート。一大ブームとなったドラマ「ツイン・ピークス」などの映像作品以外に、絵画、写真、音楽などの幅広いジャンルでダークな世界観を発表している。
1969年1月5日、アメリカ出身。92年にマリリン・マンソンを結成。95年にアルバム「ポートレイト・オブ・アン・アメリカン・ファミリー」でデビュー。インダストリアル・メタル、オルタナティヴ・ロック、ゴシックにポップ感を融合させた音楽はティーンに人気だったが、世間を挑発する際どい言動でキリスト教団体やPTAから敵視されている。
1939年5月25日、イギリス出身。長くイギリスの舞台を中心に活動していたが、『私に近い6人の他人』(93)でハリウッドデビューする。『X-メン』シリーズ(00~14)のマグニートー役で広く知られるようになる。『ロード・オブ・ザ・リング』3部作ではガンダルフ役を演じて長くアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
1944年1月9日、イギリス出身。3大ギタリストの1人と呼ばれ、ハードロックバンド、レッド・ツェッペリンのギタリスト兼プロデューサーとして、今なお尊敬を集める。18年秋、バンドが監修した結成50周年記念公式本『LED ZEPPELIN by LED ZEPPELIN』がリリースされた。
1961年2月10日、アメリカ出身。91年に監督デビューし、3作目の『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』(99)で注目される。『サイドウェイ』(04)と『ファミリー・ツリー』(11)でアカデミー賞脚色賞を受賞。哀愁とシニカルが漂うビターなコメディに定評がある。
1940年10月23日、ブラジル出身。22年間の選手生活で通算1363試合に出場、1281得点を記録し、サッカーの王様と呼ばれる。 56年、15歳でサントスクラブに入団。17 歳で58年ワールドカップのブラジル代表チームの一員に選ばれ、4試合で6ゴールを達成し初優勝に貢献した。95年から3年間、ブラジルのスポーツ大臣を務めた。
1960年8月17日、アメリカ出身。81年に『タップス』でデビュー。『ミスティック・リバー』(03)と『ミルク』(08)でアカデミー賞主演男優賞を2度受賞した実力派。91年に『インディアン・ランナー』で脚本、監督デビュー。現在、暗殺されたサウジアラビアのジャーナリスト、カショギ氏に関するドキュメンタリーを撮影中。
1946年2月5日、イギリス出身。65年に『ナック』で映画デビューし、ルキノ・ビスコンティ監督『地獄に堕ちた勇者ども』(69)で見せた退廃的な美しさに注目が集まる。ベルリン国際映画祭銀熊賞に輝いた『さざなみ』(15)といったアート系から『レッドスパロー』(18)のようなメジャー大作にも出演する。現在SFドラマ『Dune』の撮影中。
1951年10月26日、アメリカ出身。新表現主義の作家として活躍する一方で、96年には交流のあった画家ジャン・ミッシェル・バスキアの伝記映画『バスキア』で監督デビュー。『夜になるまえに』(02)でヴェネツィア国際映画祭の審査委員グランプリを、『潜水服は蝶の夢を見る』(07)でカンヌ国際映画祭監督賞などを受賞。最新作は『永遠の門 ゴッホの見た未来』(18)。
1949年1月18日、フランス出身。カモンド装飾美術学校を卒業。83年にフランソワ・ミッテラン元大統領の依頼で大統領公邸、エリゼ宮の内装を担当し、一躍名が知られる。日本では浅草の「アサヒビールスーパードライホール・フラムドール」のオブジェで有名になった。
1942年、イタリア出身。83年~00年までイタリアのファッションブランド、ユナイテッド カラーズ オブ ベネトンの広告写真を手掛け、死刑囚やその緒がついたままの新生児、口づけを交わす神父と修道女など、衝撃的なビジュアルで世界各地で論争を巻き起こした。18年春夏コレクションからベネトン広告に復帰している。
1945年8月14日、ドイツ出身。『アメリカの友人』(77)で国際的に成功し、『パリ、テキサス』(84) でカンヌ国際映画祭パルムドールを、『ベルリン・天使の詩』(87)で同祭監督賞を受賞。キューバの老音楽家に光を当てた『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99)は世界ツアーが組まれるほどのブームとなった。
1949年3月21日、スロヴェニア出身。哲学、精神分析から、オペラ、宗教、映画、芸術、現代政治まで、縦横無尽に論じ時に物議を醸す現代思想界の奇才。40本以上の歴史的名作の映像を引用しながら、新しい見方を提示する『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』(06、12) シリーズが日本でも公開された。
ドイツ・ベルリン出身の映画監督であり作家でありプロデューサーである。監督としては、ハーヴェイ・カイテル、デビ・メイザー、スーパーモデルのナジャ・アウアマンが出演の短編映画『Who Killed the Idea?(原題)』(03)、マリ ーナ・アブラモヴィッチ、スラヴォイ・ジジェク、エミール・クストリッツァ、アンジェリーナ・ジョリーらを出演に迎えた『Balkan Spirit(原題)』(12)を手掛ける。近年は、ダイアン・クルーガー、ヴィム・ヴェンダース、ジュリアン・シュナーベル、マイケル・マドセン、エド・ルシェ、フランク・ゲーリー、クリス・クリストファーソン、ハリー・ディーン・スタントンら出演の『Dennis Hopper: Uneasy Rider(原題)』(16)を手掛けた。これまで、グリメ賞(ドイツのエミー賞に匹敵する賞)受賞をはじめ、カンヌライオンズなどを含め1000以上の賞を受賞している。ドイツ・アート・ディレクターズ・クラブの会員であり、トリーア応用芸術科学大学で教授として教鞭をとり、ヨーロピアン・フィルム・アカデミー(EFA)の会員でもある。