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INTERVIEW&PROFILE

ハニ・アブ・アサド監督 インタビュー

――これまでの代表作は、自爆テロが題材の『パラダイス・ナウ』や、怒りを抱えたパレスチナの若者を描いた『オマールの壁』など痛烈な社会派ドラマでした。今回は希望を与える音楽ドラマですが、本作を作ろうと思ったきっかけは?

芸術の本質は醜さから美を作ることだと気づいたのです。中身が醜い物語であっても美しく描かれ感動できる芸術作品に人は魅了されます。だから私の仕事は悲しい物語を美しく感動的なものにすることなのです。

――ムハンマド・アッサーフは醜さから美を作ろうとしていた、だからあなたは彼の実話を映画化したいと思ったのですか?

ムハンマドの物語には2つの段階があります。希望と不屈の物語、そして成功の物語です。パレスチナではこの60年間、敗北の物語しかありません。勝利の物語もなければ、サッカーで勝てるチームもなく、1960年代の革命も失敗に終わりました。しかし今、我々パレスチナ人が待ちに待った、成功の物語を手にしたのです。興味深いのは、ムハンマド・アッサーフの物語は、勝利の物語ということなのです。

――映画の中には夢を叶えるという要素もありますよね?

それも非常に重要ですね。これは姉と弟の物語であり、二人の関係性を表現しています。姉は弟に自分の夢を託し、その一方で弟は姉のために腎臓を手に入れようとするが間に合わない、その償いとして弟は姉の夢を実現しようと思う。だからこそこの映画は感動的で面白いのです。

――ムハンマドと初めて会ったのはいつですか?

2014年ヨルダンで初めて会いました。製作側にこの映画を監督したいかを聞かれ、私は彼に会いにヨルダンへ行きました。会ってみると、誰もが惚れこむほど素晴らしく立派な青年だなと真っ先に思いました。

――演出のために、どのくらいストーリーを脚色し、どのくらい真実を残しましたか?

要素としては100%フィクションですが、ストーリーは100%真実です。ムハンマドには姉がいて、2人はとても仲が良く、一緒に歌をうたったが、姉はギターを弾かなかった。ですがウマルのキャラクターは事実とは違い、完全にフィクションです。アッサーフには他にも兄弟姉妹がいますが、印象を強めるため姉1人に設定しました。

監督:ハニ・アブ・アサド


1961年、イスラエル北部のナザレ生まれ。オランダで飛行機技師として数年働いたのち、映画界入り。主な作品に『エルサレムの花嫁』(02/未)、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞受賞、カンヌ国際映画祭ある視点部門審査員賞に輝いた『パラダイス・ナウ』(05)、ハリウッド映画『クーリエ 過去を運ぶ男』(11)、2度目のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート、カンヌ国際映画祭ある視点部門審査員賞ほか数々の賞を受賞した『オマールの壁』(13)などがある。

ムハンマド・アッサーフ インタビュー

――自分の人生が映画になるのは、どのような気分ですか?

もちろん最高です。この世界に入ってわずか3年足らずで自分の映画が作られるなんて、異例の速さだと思いますがとてもうれしいです。自分の人生が映画になるなんて夢にも思いませんでしたし、たとえベッドの中でそういった夢に思いを巡らせていたとしても、叶うわけがないですしね。

――『アラブ・アイドル』で勝つことは、どんな意味がありましたか?

僕の人生で一番重要な出来事であり、この先もずっと重要であり続けると思います。もちろんそれは素晴らしいことだったのですが、もろ刃の剣でもありました。僕は歌うという夢を叶え、今ではアラブ中の人々が僕の歌を歌っています。町でファンに会うと、みんな僕を歓迎してくれます。それに勝ることはありません。それ以上何を望むというのでしょうか?ただ難しいのはプライバシーが無くなるということです。プライバシーは守りたい。僕に課された責任を感じ、時に実際より年を取ったような気分になります。

――希望のシンボルでいることは、どのような気持ちですか?

実のところ責任を感じます。でも人々に希望を与えていると思ってもらえるのはいいことです。僕が『アラブ・アイドル』で優勝したあと、たくさんのパレスチナ人がショーに参加するようになりました。しかも皆、ツワモノばかりです。そのことは僕にとっての希望です。誰もが自分自身を追求すべきであり、環境や状況に左右されてはならないのです。だからこそ今の僕があるのだと思います。

ムハンマド・アッサーフ

1989年9月1日生まれ。アメリカの人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」の中東版「アラブ・アイドル」で2013年に優勝したガザ地区出身のポップスター。祖国への想いを歌い、“ガザの希望”“ガザのロケット”と呼ばれ、パレスチナだけでなくアラブのスーパースターとなった。現在はヨーロッパでもコンサートツアーを行うなど多忙を極めている。また、国連パレスチナ難民救済事業機関青年大使を務めるなど平和への活動を続けている。