20世紀前半のフランス、二度の大戦にはさまれた時代のパリでは、文学や芸術の革新を求める前衛運動がにぎやかに花開いていた。詩人アンドレ・ブルトン率いるシュルレアリスムはその代表で、一癖も二癖もある偉才たちが結集して、喧々諤諤、日々しのぎをけずっていた。神を否定し国家権力を否定し、あらゆる領域において横紙破りのスキャンダルを演じようとした彼らの合言葉は「自由」そして「愛」。ブルジョワ社会の抑圧を打破してタブーなき、絶対の愛に達するというのが、彼らシュルレアリストの夢見た理想だった。

 そんな彼らが、セックスの謎を探ろうとする「探究」を、集団で行おうとしたことがあったらしい。それはかねて知られていたことなのだが、しかしその実態が明らかになったのはようやく10数年前、亡きブルトンのひきだしの奥底に潜んでいた資料が公刊されてからだった。集団での討議や実験を重視したシュルレアリストたちは、セックスという気遅れするテーマをめぐっても仲間で集まっては、ブルトンの厳しい「指導」のもと、各自のセックス観、セックス体験を包み隠さず述べるということをやっていたのだった。

 単なる猥談というのではまったくない。そこには人間精神の不思議に迫るための、彼らなりに真面目な努力があったのだが、それにしても結果としてあぶりだされてくるのは、当時最先端のアーティストだったはずの彼らの、意外なまでの頭の硬さだったり、奇妙な迷信深さだったりした。そもそもリーダーのブルトン自身、ホモセクシュアルにまったくの無理解と嫌悪をさらけだしたり、そのくせ「アナルセックス」が一番と主張したり、さらには「夢魔」、つまり夢のなかで男を犯しにくる魔性の物の怪などという存在を信じていたりと、ちょっと唖然とするような頑迷さをさらけだしている。かと思えば30才そこそこで2000人の女性を相手にしたと告白する詩人エリュアールのような凄い人物もいて、前衛芸術家集団の多様さが改めて痛感された。真剣になればなるほどこっけいでもある「調査団」の雰囲気には一種のキュートささえ漂い、実に興味津々のドキュメントなのだった。

 かつて大喜びでその資料に飛びつき翻訳までした人間としては、それから10余年、その本が映画化されたと聞いて心の底から仰天した。何しろものは小説でも劇でもない、討議の筆記録なのである。なるほど、ぎこちなくも誠実な告白大会には演劇的側面がなくはない。しかし「オナニーをどう思うか」だの「女が快感を得たかどうかをどう見極めるか」だのといった質疑応答が延々と並ぶ記録が、どうやったら映画になるというのか。

 脚本を書き監督を務めたのはアラン・ルドルフ。そう知ると多少腑に落ちる点もある。そして実際に映画を観て、それが少しもいやらしさのない、爽やかさとユーモアを含む軽やかな「珍品」に仕上がっていることに感心すると同時に、1920、30年代の文化に敬意と憧憬を抱き続けるアラン・ルドルフの変わらぬ姿勢にも感銘を受けた。『モダーンズ』や『ミセス・パーカー』で見せた、父の世代(アランの父も映画人だった)の文化に対するこだわりが、この『セックス調査団』をも支えている。学者や画家や作家が集まって、謹厳な表情で性のタブーに挑戦しようとする。どんな性的刺激にもすれっからしになってしまったような現代からするとほとんど馬鹿馬鹿しいくらいのその情景が、ルドルフの手にかかると、芸術も、そして社会も人々もいまだ「若かった」時代の光景として初々しく魅力的に再構成されるのだ。

 1924年のアメリカの学園都市が舞台ということになっていて、『シュルレアリスム宣言』刊行の年という点にブルトンらへの目配せは感じられるものの(イヴ・タンギーそっくりの画家も登場する)、しかしむしろ「原作」には登場しない人物たちの力によって画面にはいきいきとしたドラマが生み出される。それが速記役として雇われた、タイプは対照的だがそれぞれに魅力たっぷりの女性たちであり、頭でっかちなインテリたちの「探究」がそのまま、女性主導による「実践」へと移行していくところにこの映画ののびやかな面白さがある。実際にはまだ厳格な性道徳が支配していた時代に、そうした制約を自然体でふみこえていく力は男よりも女たちの方にあったという視点がそこに感じられる。

 驚かされたのは、芸術家集団の庇護者というかプロデューサー役としてニック・ノルティが登場することだ。かつてのアクション・ヒーローが頑強な体はそのまま、葉巻の似合う成金爺さんとして強烈なパワーを発散し、ドラマを盛り上げる。できれば彼の激しいベッドシーンが見たかったような気さえする。ノルティは実際にこの作品のプロデューサの一人でもあるという。アメリカ映画の意外な奥行きふかさを知った思いがする。